いいから黙って抱きしめろ。

ただいまとか おやすみとか 愛しているよとか。

祈りについての考察。2017 1/6

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ひょんなことで、祈りについて考えるキッカケをもらった。

 

新年に、わたしの会社では社員皆で神宮へ行き、祈祷をしていただくのだけれど。

 

ふと、

 

「ああ。祈りって、結構自分勝手なものなんだな」と思ったりしたのだ。

 

 

 

お守りください。とか

お導きください。とか

 

 

わかんないけど、シャンシャンされたときにはわたしの心にはちょっと そんな気持ちがあって。

 

あれ。いいのかな。祈るだけで。

他人任せでいいんだろうかと思ったりしたのだ。

(この場合は神様か。)

 

 

けど、けれども、

結局のところ、それでいいんだよな、と思う。(って言う、自己解決の日記。なんじゃそりゃ 笑)

 

 

 

祈りはいつだって自分本位だ。

 

 

 

「幸せになってね」だって

(わたしがあなたを幸せにすることは叶わないけれど)が含まれている気がするし

 

 

「元気になってね」だって

(あなた自身の回復力を信じているよ)が含まれている気がする。

 

 

そこにわたしの力は介在しない。というか、できない。

だから、まあ。祈るのだけれど。

 

 

そういう祈りの背後には、「信じたい」って欲があるのかもしれないなあ。

 

わたしがいなくとも、「幸せになってくれる」とか「元気になってくれる」とか。

信じたい。そういう欲だとか。

 

 

祈り、願い、欲、意志。

 

目には見えない自分や他人からのそれを

 

信じたいって気持ちが祈らせるのかもしれない。そんな風に思ったりしたのです。

 

 

もう、話すことができなくなってしまった人が

遠くの地で心から穏やかでいられるような祈り。

 

もう、抱きしめることのできなくなってしまった人が

どこかで誰かの温もりに暖めてもらえるような祈り。

 

それは再開への祈りだっていいのかもしれないな。

 

いつかまた、一緒に笑っていられますように。だったり

いつかまた、あの人の紡ぐ音が聴けますように。だったり

 

 

明日を思い描いたり、遠く離れた誰かを想う気持ちが

祈らせるのだとするならば

 

その原材料はきっと希望だ。

 

 

世界は今日もやっぱり、美しかったなあ。

 

読んでくださったあなたの明日が、きっといい日でありますように。

 

勝手に、こっそり、祈っています。

 

 

それではきっと、また明日。