手放す勇気。
日付が変わる前に家に帰ってきてブログを更新したいのだけれど
ここ最近有難いことに23時を過ぎての帰宅ばかりになる。
そうするともうマッハ。
(ちなみにこれを書いている今は23:30を過ぎております。わお。間に合えー!)
ものすごく嬉しいことに、ここ一週間くらいはずっと仕事あがりに誰かに誘っていただいて、一緒に夕食をとりながらの会話をしている。
有り難いなあ。
でも、仕事もパタパタしながらなので、なかなかに自分の時間が取れない。
これは良くない。すごく良くない。
もうね、部屋を見るともので溢れかえっているのよ。
(部屋と思考は同じって本当その通りだなと思う。)
わたしよ、手放す勇気を持とう。
案外、なくても生きていけるはずだよ。
わかっているのに、なかなかにできないのはなんでだろう。
何が恐いのだろうか。
一体自分が何をどれくらい保有しているのか、
わたしはわかっているのだろうか?
どこかでちゃんと、リセットしたいなあ。
と、このへんでやっぱり目につくのはニーチェなのでありまする。
(PCの前に置いているからそりゃそうだ。)
求めるものはここにある
きみの立っている場所を深く掘り下げてみよ。泉はその足下にある。
ここではない何処か遠くの場所に、見知らぬ異国の土地に、自分の探しているもの、自分に最も合ったものを探そうとする若者のなんと多いことか。
実は、自分の視線が一度も向けられたことのない自分の足の下にこそ、汲めども尽きせぬ泉がある。求めるものが埋まっている。自分に与えられた多くの宝が眠っている。
『たわむれ、たばかり、意趣ばらし』ニーチェ
ざっと読んで、一行目におお。となったけれど、
3回くらい読み直したら最後の一文におおおおとなった。
「自分に与えられた多くの宝が眠っている」
ふむ。そうか。宝。与えられた宝。
(ってなんかわたし…こんな文章書いてますけど普通の人ですからね。大学の専攻とか日本文化学科でしたからね、哲学と無縁ですからね!笑)
ないないって思い込んで、手放せないのは、あるものに気づけていないから。
本当にないのか、と言われると、そんなことないんだと思う。のです。うん。
だってもう、本質、だけを感じ取ろうよ。
経験や体験はきっとこれから先も増えるから。
わたしが何に幸せを感じ、歓びを感じ、豊かさを感じているか。
もうどんどん削ぎ落としてシンプルになっていこう。
それをするためにどうすべきか。
時間は確か、作るものだね。
手放す勇気を持てたとき
きっと今よりもっと高く跳べる。
今よりもっと深く潜られる。
汲めども尽きせぬ泉を覗こう。
行こうぜ樹利佳、明日はこっちだ!
今日も最後まで読んでくださってありがとう。
頑張った眼のために、瞼を月光浴させてあげませう。
それではきっと、また明日。