いいから黙って抱きしめろ。

ただいまとか おやすみとか 愛しているよとか。

「決める」ことに囚われない。

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「自分で決めたことだから。」

 

 

そう言って歯を食いしばる彼女たちの横顔を

 

何度 美しい と思い、眺めてきただろう。

 

 

決断は美しい。

 

決心も美しい。

 

 

 

例えば

 

やる、と決める。とか

 

例えば

 

やらない、と決める。とか

 

 

 

 

例えば

 

逃げない、と決める。とか

 

 

いっそ

 

逃げる、と決める。とか。

 

 

 

 

長いものに巻かれず、自分で決めるということは

 

誤魔化せない己の弱さと向き合ったり

 

有耶無耶にしてきた過去を見つめ直したりすることかもしれない。

 

 

 

ちょっとしんどいけれど、その先に望む未来があるような。

 

決心をすることは、きっと美しい。

 

 

 

 

と、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな風に思っていたのです。わたし。

 

 

 

 

すこし前まで。

 

 

 

 

 

 

ふと改まって思って気づいたのですが

 

 

例えば

 

 

「時間を意識して動く」とか

 

「見ないフリをしていた自分を見過ごさない」とか

 

「何があっても責任は自分が取る」とか

 

あるいは「毎日ストレッチをする。」とか。

 

 

そういう決め事って

 

 

表面の聞こえは格好いいものだけれど、

 

ともすれば

 

 

「決めたことによって、耐えている自分カッコイイ。」

 

になってしまっているかもしれないなって、

 

 

ふと気づいたのであります。

 

 

 

これはちょっとした、わたしなりの発見。

 

 

すごいなあ。

 

 

 

囚われていたのは、わたし自身の意志だったのだなあ。

 

 

 

 

 

 

 

やらなくちゃいけないことなんて、なんにもない。

 

 

決心も、決断も、それに囚われる必要性なんてどこにもないよ。

 

 

 

 

 

 

気を張ることも悪くないし、歯を食いしばりながら耐える姿勢も時に美しいと思う。

 

 

 

けれども、そういう自分で在ること「そのもの」には、

 

 

きっとあんまり意味はないんだなあ。

 

 

 

 

 

 

なぜだか肩の力が抜けるように気づけた冬の夜なのでした。

 

 

 

 

上手に噛み砕いて書けないのがちょっと悔しいけれど

 

 

そういう食いしばったりしてきた過去のある人が

 

もうそれを乗り越えることができたのであれば、ね、

 

 

ニュートラルな自分でいることを、選んでいいのだと思うよ。

 

 

 

 

 

日に日に寒さに拍車がかかりますね。

 

 

 

冷えた手足のその冷たさに耐えるあなたの

 

 

こころが深く穏やかでいるのを、美しいと思うよ。

 

 

 

 

今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

 

 

それではきっと、また明日。